緑毛鬼 ──走無常2 (出典:「田中芳樹」公式ガイドブック) 田中芳樹・著      ㈵  JR中央線の吉祥寺《きちしょうじ》駅を南口に出ると、水と緑の美しい井の頭公園までは歩いて五分ほどの距離である。その途中、低層のマンションやブティックや喫茶店が並ぶ一角に、イギリスからの輸入雑貨を売る小さな店ができた。  店の名前は「|二人の女王《ツー・クイーンズ》」。店名の由来については、ショートカットの髪、形のいい鼻に眼鏡《めがね》をかけて、タートルネックのセーターの胸に一ペニー銅貨のペンダントをぶらさげた若い女主人《ミストレス》が説明してくれる。イングランドのエリザベス女王とスコットランドのメアリ女王とからとった店名だ、と、ふたりの女子大生のお客に説明した若い女主人は、何やら思い出したようすで、指先をあごにあてた。 「井の頭公園といえば、そうかあ、もうあれから何年になるかなあ、早いものね」 「え、あれって何ですか?」 「もちろんあのバラバラ事件よ。ほら、近所のサラリーマンが殺されて、死体を切断されて、井の頭公園のゴミ箱に放りこまれたって事件、あれまだ犯人がつかまってないのよねえ」  観光客は知らない、地元の住民は忘れたい何年もの前の怪事件を、若い女主人はいかにも楽しそうに弁《べん》じたてる。女子大生たちは目に見えてたじろいだ。そんなことがあったとは知らなかった、犯人がつかまってないというのは不安だな、いくのやめようか。そういう心の動きが表情に浮かびあがる。  店の奥で商品にハタキをかけていた人物が、ちらりとそのようすをうかがった。一五歳くらいの、育ちのよさそうな少年だ。 「ま、そんなことより、どうぞ当店《うち》の自慢の品ぞろえ、見てくださらない? こんな品、あつかってるのは、吉祥寺でも当店だけよ。値段も勉強してあるし、見るだけでも見ていってちょうだい」  女主人が店の奥へと手招きする。少年は小さく肩をすくめて、ハタキを動かしつづけた。その足もと、オークをフローリングした床の上に、二匹のネコが丸くなっている。  意欲充分な女主人は、商品の前で得々《とくとく》と説明をはじめた。 「これはロンドン塔の名物、ペーパークラフトの断頭台《だんとうだい》です。この小さなハンドルを回すと、死刑執行人のかまえている斧《おの》が振りおろされて、ほら、死刑囚の首がころりと落ちるんですよ。首の斬り口まで、リアルによくできてるでしょ?」  女子大生たちは一歩さがった。ペーパークラフトの断頭台から視線をそらし、肩ごしにドアをながめやる。 「あ、こちらは、マダム・タッソーの蝋《ろう》人形館で売っている品です。蝋でできた小指のキーホルダーでして、ね、真物《ほんもの》そっくりでしょ。これをひょいと放りなげたら、受けとめた相手はびっくりしてくれますよ」  女子大生たちは一歩さがった。若い女主人の声に、あせりがあらわれる。 「あっ、それでしたらこの赤鉛筆はいかがでしょ。ほら。お尻の部分に人間の首がついてますけど、これはフランス革命のときに殺されたルイ一六世の生首を精巧に復元してあるんです。鼻血が大量に出てるのは、ギロチンで首を切断された瞬間に、血圧が急変するからで……ね、これこそリアリズムの極致……」  語尾は、あわただしくドアを開閉する音にかき消された。無人と化した店内の空間をにらんで、若い女主人は舌打ちした。 「チェッ、また客に逃げられた」 「品ぞろえが悪趣味すぎるんだと思うな」  遠慮がちにいったのは、ハタキの手をとめた少年である。 「どこが悪趣味だっていうのよ。いってごらん、瞠《みはる》」 「だって断頭台のペーパークラフトとか、小指のついたキーホルダーとか、普通のお客さんは買いっこないよ」 「だめねえ、日本人ってユーモアのセンスがとぼしいから」 「あのさ京《みやこ》おばさん……」 「お姉さまとお呼び!」  きびしくたしなめる。 「あんたとあたしは、一〇歳しかちがわないんだから。二〇歳以上ちがわないと、おばさんなんて呼んじゃいけないのよ」  瞠《みはる》と呼ばれた少年は、すなおにうなずいた。反抗することで自我を確立する必要がないのか、反抗しても無益だということをさとっているのか。おそらく両方だろう。かしこまった表情にいつわりはなさそうだった。  少年の足もとにいる二匹のネコが、興味ありげに人間たちを見あげている。黒絹で全身をつつんだようなクロネコと、春の陽《ひ》ざしのようにあたたかい感じのキジネコだ。こころなしかクロネコの視線は皮肉っぽく、キジネコの視線はおっとりしているような印象である。  少年が着用しているイギリス製のエプロンには、斬り落とされた自分の首をさがす緑色のドラゴンが描かれている。それを見ながら「お姉さま」はいった。 「だいたい、あんた、顔も雰囲気《ふんいき》も悪くないんだからさ、女の子をひっかけて、うちの店につれてきて、商品を売りつけなさいよ」 「ペーパークラフトの断頭台を?」 「何でそう、いやそうな表情《かお》をするのさ。吉祥寺どころか、日本中で当店だけがあつかっている稀少品《きしょうひん》よ。いったん流行しはじめたら、こっちのもの」 「おばさん、じゃない、お姉さまだってさ、美人なのに何で男が寄ってこないか、すこし考えてみたほうがいいんじゃないかな」  瞠という名の少年は憎まれ口をたたいたが、表情も口調もソフトなうえに、いつでも逃げ出せるような体勢だから、たいして効果はなかった。 「うるさい、あたしはギロチンにかかって死ぬのをおそれるような軟弱な男どもには興味がないのだ!」  京《みやこ》お姉さまは甥《おい》を一喝《いっかつ》した。 「このまえデートを申しこんできた身のほど知らずは、小指をつけたキーホルダーを顔に投げつけてやったら卒倒《そっとう》するし、去年お見合いしてやったヤブ医者ときたら、プレゼントしためざまし時計の音で心臓|発作《ほっさ》をおこしかけるし……日本の男はもうだめね」  めざまし時計の音というのは一〇〇ホーンもありそうな女性の恐怖の絶叫である。  ひかえめに瞠は提案した。 「留守番電話《ルスデン》のBGMも変えたほうがいいと思うなあ」 「何いってんの。ヘルマン・フォン・ブライザッハの『死神は空を行く』よ。ロマン派の名曲よ。死神の鎌《かま》からしたたり落ちる血の音をモチーフにしてあるの。そのよさがわからないなんて、あんた、芸術的感性がとぼしいわね」 「いや、そうじゃないけど、その人、ドイツ人でしょ?」 「そうよ。アラブ人やベトナム人や日本人の名前に聞えるとでもいう気?」 「そうじゃないって。ここはイギリスの雑貨を売ってる店でしょう? だったら、イギリスの音楽を流せばいいのに、と思って」  床の上で、クロネコとキジネコが賛同のうなずきをしめした。何なら声も出そうか、というオモムキである。なぜか京は胸をそらした。 「フォン・ブライザッハさまはねえ」  いつのまにか敬称をつけている。 「一八四八年から四九年にかけての三月革命に挫折《ざせつ》して、反動的なドイツに絶望し、イギリスに亡命なさったの。お墓だってロンドンにあるのよ。だからイギリスの雑貨を売る店で、フォン・ブライザッハさまの曲を流しても、ちっとも変じゃないの。どうだ、まいったか!」 「べつにまいりはしないけど……」  そう応じたものの、瞠という少年の声には、何となく敗北感みたいなものがただよっている。 「とにかくこの店は、あたしのポリシーを表現する場なんだから、魂の五つや六つ悪魔に売りわたしても、あたしは今の路線を守りぬいてみせるわよ!」  京の視線をまともに受けたので、瞠はまじめくさって拍手してみせた。 「金童《きんどう》と銀童《ぎんどう》は?」  名ざしされた二匹のネコは、小さい声で鳴いた。これは大家《おおや》さんに対する義理である。 「よろしい。ところで、瞠、定時制の学校生活はどう? いじめられたりしてないでしょうね」 「定時制には五〇歳すぎた人もいるんだ。いじめなんかやるようなコドモはいないよ。みんな社会人で、オトナだから、おたがいの世界を尊重してる。心配いらないって」 「それならいいけど、いい年齢《とし》した社会人でも、オトナになりきれないのが、このごろはたくさんいるからね。仕事と趣味の区別もつかないやつとかさ」  クロネコの金童とキジネコの銀童とは、すばやく視線をかわしあった。もちろん人間の言葉をしゃべれはしないが、しゃべれたとしても沈黙を守ったにちがいない。 「じゃ、そろそろ今夜の仕事の話をしようか。お客もいないことだし」  そういうと京は二匹のネコを見おろして頭《かぶり》を振った。 「イヌとちがって、ネコってほんとに役立たずなのよねえ。番ネコとか救助ネコとは盲導《もうどう》ネコとか、聞いたことないし、いまどきネズミとりの役にも立ちそうにないし」 「ネコの役立ちかたはイヌとちがうんだよ。日常的じゃないんだ。だから、たとえば、呪《のろ》いとか祟《たた》りとかだったら、ネコのほうが役に立つと思うな」 「あんた、それ、フォローしているつもりなの?」  うたがわしげな京の口調だった。 「ま、あんたにはまだ不可欠《ふかけつ》なコーチだろうから、追い出す気はないけどね。それどころか、ミルクまでやろうっていうんだから、われながらお人よしだわ」  クロネコの金童とキジネコの銀童は、いそいそと、自分専用のミルク皿へ足を向けた。      ㈼  クロネコの金童は、ハードボイルドをもって信条としている。  公務には私情をまじえず、冷静かつ緻密《ちみつ》に、さらに徹底的に処理すること。弟子《でし》の瞠《みはる》に対しては、甘やかさず、きびしい指導で欠点を矯正《きょうせい》し、はやく一人前に育成すること。それが走無常《そうむじょう》をコーチする金華猫《きんかびょう》の正しい姿である。パートナーの銀童みたいに、瞠がまだ半人前だという理由で甘やかしたりかばったりしていては、本人のためにも冥府《めいふ》のためにもよくないのだ。  ただハードボイルドをもって信条とする金童にも苦手《にがて》はある。ミルクを飲むのがへたなのだ。いそがしく舌を動かすとミルクの飛沫《しぶき》が顔にかかって、漆黒《しっこく》の毛に点々と白いものが散る。いっぺんにまぬけな顔つきになってしまった金童を見て、瞠と京は声をあげて笑った。銀童も笑ったが、猫は笑うときには音をたてないものである。  気分をそこねたようすの金童を見て、瞠が笑声をひっこめながらなだめた。 「仕事がすんだらお風呂にいれてやるよ」 「春とは名のみの寒さじゃ、ネコにとって夜の仕事はつらいわね」 「ぼくもつらいけど」 「あんたは修行中の身でしょ。多少つらくて当然。帰ったらお風呂とスコットランド風スープが待ってるから、さっさとすませておいで。さいわい東京での仕事よ」  店の奥に大きな円《まる》いテーブルがあって、タータンチェックのクロスがかけられ、ガラスの深皿にポプリが盛られている。心地《ここち》よさそうな一角だが、店全体の雰囲気からはやや浮いているようでもある。  アールグレイの紅茶の香りがカップからただよって、瞠は内心で溜息《ためいき》をついた。店全体をこの雰囲気で統一すれば、けっこう若い女性客を呼べるはずだと思うのだが、瞠の視線の先にあるのは、大きなナイフを振りかざした「切り裂きジャック」の油絵である。 「♪リジー・ボーデン斧《おの》とって 母さんなぐった四〇回  彼女のしわざとばれたので 父さんなぐった四一回♪」  一九世紀の犯罪実話にもとづくイギリスの歌をうたいながら、京はテーブルにつき、仕事の説明をはじめた。今回、対象となるのは若い男だ。父親が資産家で、高校卒業後、アメリカの西海岸《ウェストコースト》の大学に進み、国際経営学を専攻したという。 「ところがよくある例で、英語も国際経営学とやらも、まるでものにならない。おぼえたのは薬物《ドラッグ》だけ。それで卒業もできずに日本に帰ってきて、ファッションモデルをやってたんだって」 「モデル? すごいね」 「フン、弁護士や医師とちがって、モデルには資格試験なんかないの。自分でそう名乗るのは自由なのよ。世間が相手にするかどうかはべつにしてね」 「で、その人はもう死んだわけだね」 「そう、ヘロインを自分で注射して、量をまちがえてショック死。無意味な人生よね、まったく。それにしても、あんた、薬物を密売するようなやつらをやっつけてやれないの?」 「だめだよ」  生きている人間がどんな悪事をはたらこうと、それは冥府に関係のないことだ。その人間が死ねば、はじめて冥府のとりしまりの対象になる。 「だから、走無常にしても陰曹官《いんそうかん》にしても、生きてる人間を罰したりはできないんだよ」 「そういののってさ、お役所仕事っていうんじゃないの」 「冥府ってお役所だもの。よけいなことをしたらいけないんだよ。陽界《このよ》だって、警察が裁判までやったら、いろいろまずいだろ」 「わたし個人はちっともまずくないけどね。ま、それはそれとして、こいつが今回、ナマイキにも陰陽両界《いんようりょうかい》の秩序を乱してるわけ」  京は甥《おい》の前に写真を押しやった。やや長髪、やや面長《おもなが》、ととのっているといえばいえるが、あまり特徴のない顔だ。 「まぬけづらしてるでしょ? 何せ、自分が死んだことも知らないんだから」 「でも、それはそんなにめずらしいことじゃないよ。急死した人の半分ぐらいは、自分が死んだことをなかなか納得しない」  冥府につとめる役人たちにとって、まず最初の仕事は、死者に自分の死を納得させることである。納得しないと、幽霊になるくらいならいいが、生者の肉体にとりついたりして、めんどうなことになる。 「その点もふくめて、あんたに処理してきてほしい、という連絡なのよ。ええと、連絡によると、死人の姓名は飛鳥井英道《あすかいひでみち》……ごたいそうな名ね。ま、姓も名も自分でつけるものじゃないけどね」  日没の直後、ひとりの若い人間と二匹の年齢|不詳《ふしょう》のネコが、多摩川の河面を北に見おろす丘陵地に立っていた。真冬ほどではないが、夜気はまだまだ肌に優しくない。瞠少年はハイネックのセーターの上からブルゾンを着こんでいた。二匹のネコは季節をとわずおなじかっこうだ。  飛鳥井家はかつてこの一帯の大地主で、第二次世界大戦の前には、自分の家から他人の土地を踏まずに神奈川県まで行けたそうである。いまでも膨大《ぼうだい》な不動産を所有しているが、バブル経済の崩壊後は、いささかきびしい状況らしい。  いま瞠《みはる》少年の前にたちはだかっている神殿めいた建物は、飛鳥井都市開発株式会社が一年前に完成させた超高級分譲マンションだ。いちばん価格の安いフラットでも三億円以上する。不景気の長びくご時世《じせい》で、一戸も売れず、無人のままだという。  アメリカから帰国したドラ息子が「生きかえった」ことに、飛鳥井家は狼狽し、このマンションの一室に監禁している、というのが京お姉さまからの情報だった。  見たところ、玄関ロビーと管理人室にしか灯火はともっていないようだ。だが、御影石《みかげいし》をはった高いフェンスにそって裏手へまわってみると、かすかに青白い光の層が、フェンスの縁にわだかまっているように見えた。  さっそくクロネコの金童が姿勢をととのえ、無造作《むぞうさ》にフェンスの上に跳《と》びついた。地球の重力を軽蔑するかのような優雅な動きだ。  偵察してくるからそこで待ってろよ。  そうネコ語でいいのこすと、金童はフェンス上を五、六歩あるいてから庭へ跳びおりた。  芝は茶色に枯《か》れたままで、雑草もまじっているようだ。入居者がいないのだから、管理がいきとどいていないのも、むりはない。  庭の奥が光っていた。ドライエリアに面した地下室があって、そこから灯火が洩《も》れているのだ。音もなく走り寄って、厚いカーテンが小さく揺れているのをたしかめると、有能な金童は両耳をそびやかした。人間の声が聞える。  金童は建物にそってもういちど走り、壁に身を寄せて闇にとけこんだ。  作業服を着こんだ壮年の男がふたり、管理事務室からサービスヤードへ出てきたところだった。そこにおいてあったポリバケツを室内へかかえこもうとしている。わずかに開いたドアから、金童はするりと室内へはいりこんだ。男たちの会話が聞える。 「しかし、この何日かの騒動は、ありゃ何だ。他人事《ひとごと》ながらうんざりするぜ」 「そりゃ当然さ。あのドラ息子が生きてるか死んでるか、死んだとしたらいつ死んだか、それによって相続する財産の額がまるでちがってくるんだからな。目の色も変わってくるわけだ」 「公平に分配したって、ひとり最低一〇億ぐらいにはなるんだろう。それで満足できないもんかね」 「他人事だから、そんなことがいえるのさ。当人たちにとっちゃ、一円でもよけいにほしいだろうよ。とくに、仲の悪いやつより一円でもよけいにな」 「ま、こうなったら、あのドラ息子に妻子がなかったのがせめてものことだな。これ以上はややこしくならずにすむ」 「いやいや、わかるものか、明日にでも、若い女が赤ん坊をかかえて飛鳥井家にあらわれるかもしれん」 「お孫さんの愛人と名乗ってか。やれやれ、そうなるとまたひと騒動だな」  男たちのあとをつけて、金童は地下への階段をおりていった。 「ハムスターが五〇匹か。そこらのイヌやネコじゃないところがお金持ちだよな」 「しかし、そろそろペットショップでもあやしまれはじめたぞ。いったいどんな動物をお飼いなんですか、と尋《き》かれちまった」 「蛇だ、と答えたんだろう?」 「ああ、ちょっといやな表情《かお》をされたが、まあそれくらいはしかたないな。ウサギやハムスターを餌《えさ》用に買っていくお客はときどきいるらしい。しかし女房にはいえないな、こんな仕事をしてるなんて」 「しかたないさ、この景気だ、クビにならないだけましと思わなきゃ」  身につまされるような会話をかわしながら、二人の男はポリバケツを横だおしにし、地下室のドアの前に口を向けておいた。ドアの外側に、いくつもの太いチェーンがついているのが金童の注意をひいた。バケツのフタをとると、あわただしくその場を離れる。あふれるように、何匹かのハムスターが出てきた。と、ドアがわずかに開き、伸びてきた手が小動物をつかんだ。  金童は、たしかに見た。ドアの蔭《かげ》から伸びてハムスターをつかんだ手は、形こそ人間のものだったが、甲にも掌《てのひら》にも、みじかい緑色の毛がびっしりはえていたのだ。  いやな音が金童の全身の毛をさかだてさせた。生きたハムスターの胴を噛《か》み裂き、血や内臓をすする音だ。  金童は弾丸のように地上への階段を駆けあがった。 「緑毛《りょくもう》がはえていた? ほんとかい」  金童の報告を受けて、瞠はかるく眉をひそめた。  金童はうなり声をあげる。先輩の報告に疑義《ぎぎ》をさしはさむとは、なまいきなやつだ。そもそも、金童の見たことを、銀童をとおして見てないとすると、よそ見をしていたことになるではないか。 「ごめんごめん、でもそうすると、飛鳥井家のドラ息子は、死んでそのままずっと死んでることになるなあ」  瞠の台詞《せりふ》は、普通の人には理解しがたい。むろん金童や銀童にはよくわかる。生きかえった死者の身体に、緑毛などはえない。やすらかに眠る死者の身体にも、緑毛がはえることはない。  緑毛がはえるのは、「他者の呪力《じゅりょく》や魔力によって動かされている死者」だけなのだ。  意識も意思もないから、死者ではなく死体と呼ぶべきかもしれない。そして死体であっても動きまわるにはエネルギーを必要とするから、餌をあたえなくてはならないのだ。もし餌をあたえないと、自分でさがしまわり、人や動物をおそうようになる。だから餌をあたえなくてはならないのだが、では誰が餌をあたえているのか。  むろん飛鳥井家の一員、それも有力者だろう。マンションも飛鳥井家の所有物《もちもの》だし、男たちはしがない従業員で、上からの命令にしたがっているだけだ。 「で、いったい何のために、そんなことをしているんだろう。男たちの会話にあったとおり、死者がよみがえれば相続のゴタゴタが増えるだけだ。いいことは何もないはずだけどなあ」  英道の両親が、ひたすら息子かわいさのためにそんなことをした、という可能性もある。だが、それなら、こんなところに監禁しておくよりましな処遇《しょぐう》があるはずだった。      ㈽  屍体をあやつって人を殺させる魔術を、起屍鬼《きしき》という。仏教の用語だと毘陀羅法《びだらほう》と呼ばれる。 「起屍鬼を使った犯罪だとすると、ちょっと事情が変わってくるかなあ。ぼくの出番じゃないかもしれないぞ」  京おばさん、ではなくて京お姉さまと話したように、生者の犯罪は、走無常の管轄ではない。陽界の司法機関がとしまるべきだが、起屍鬼そのものは、とりしまろうにもそんな罪名はないのだ。  銀童が声をあげて瞠の注意をうながした。  ひとりと二匹は、手入れの悪い植込みの蔭《かげ》に身をひそめた。あたらしいふたつの人影が鉄製の門を乗りこえて進入してきたのが、闇をすかして見えた。両目と口だけが出たスキー用の毛糸の帽子に迷彩服。服はミリタリー用品の店ででも買ったのだろう。アマチュアであることは、すぐにわかった。何しろ、低声《こごえ》でたがいの名を呼びあっているくらいだ。「タケシ」「ノブオ」という声が聞えた。  陰陽両界を律する理に反して生きかえった死者が、もっとも苦手《にがて》とするのはナツメの核《たね》だ。これを七個ぶつければ、完全に動かなくなる。ただ、いつどこにでもあるわけではないから、米の粒を投げつけたり、鈴の音を聞かせたりして代用する。とりあえず、死者の足もとに米粒をばらまけば、死者は立ちすくんでしまうから、それからゆっくり、完全な処理法を考えればいい。  そのことを侵入者たちは知っているだろうか。  瞠の見たところ、そうは思えなかった。  またしても偵察に出たクロネコの金童は、彼らから一メートルしか離れていない場所で、すっかり会話を聞いてしまった。彼らの会話から、正体はすぐに判明した。彼らは飛鳥井家の当主である興邦《おきくに》老人の孫で、従兄弟《いとこ》どうしなのだ。死んだ英道とも従兄弟どうしになる。彼らはこのマンションに監禁された英道を救出に来たのではなかった。その逆だったのだ。 「こんな怪物、生かしておく必要がどこにある。飛鳥井家の名誉のためにも、本人のためにも、さっさと始末《しまつ》してしまうべきじゃないか」 「……でも、殺すのは……」 「殺す? おい、イメージの悪い言葉を使わないでくれよ。おれは始末するといったんだ。だいたい英道は、あいつは、もうとっくに死んでるんじゃないか」  タケシは笑ったが、いかにもわざとらしい笑いで、乾《かわ》ききってひびわれた印象だった。 「それでも死体を傷つけることになるだろ。いい気分じゃないな」 「そりゃ祖父さんの罪だ。あの人が死体を安らかに眠らせておきゃ、こんなことにはならなかったんだ。どんなテクノロジーだか魔法だかを使ったか知らないが、とにかくマトモじゃないぜ」  そう吐きすてると、タケシは、ノブオに向かって、死体の処理法を早口に説明した。  このマンションの地下には、最新式の生ゴミ処理機が設置されている。バイオ・テクノロジー企業が開発したもので、豚《ぶた》一匹の死体が二四時間で完全に分解され、粉末状の有機肥料になってしまうのだ。人間の死体でも、三〇時間もあればきれいに消滅してしまうにちがいない。 「一片の証拠も残りゃしないさ。たとえつかまったところで、自白しなきゃ無罪放免だ。弁護士だって有能なやつを知ってるしな」  よくしゃべるやつだ。金童はつめたく判断を下した。臆病《おくびょう》なものだから、不安と恐怖をまぎらわせるために口数が多くなる。だいたい、多少なりと度胸《どきょう》のあるやつなら、仲間をさそわず、ひとりで犯行におよぶだろう。自分ひとりでできないものだから共犯をつくるのだ。  とりあえず、瞠に報告しよう。そう思って金童はその場を離れようとした。ところが金童ほど優秀な偵察要員でさえ、しくじることがあるらしい。目測をわずかにあやまった。壁に立てかけられていたモップが床に倒れる。その音に振り向いたタケシの目が光った。 「こいつ、話を聞いてやがった。このまま帰すわけにゃいかないな」 「おい、よせよ、おとなげない。たかがネコじゃないか」  たしなめる声を、タケシは完全に無視した。とっくに興奮して精神のバランスをくずしている。抑制されてきたストレスが粗暴にうごめいて、自分でもコントロールできないのだろう。 「英道のやつも、ひとりじゃさびしいだろうからな。このクロネコをおともにつけてやろうぜ」  タケシはスパナを振りかざした。  害意《がいい》に満ちた表情は、だが、一変した。スパナを振りかざしたまま、タケシはうろたえた声をあげた。 「……あ、あんたはいったい……!?」  彼の眼前で、クロネコの姿が消えうせて、青いチャイナドレスをまとったたぐいまれな美女が出現したのだ。指が硬直し、スパナが床に落下して火花と音を飛散させた。  美女は冷たい怒りに満ちた目をタケシに向けると、身をひるがえして走り去ろうとした。 「おい、待てよ」  反射的に追おうとしたタケシだが、ワンテンポおくれて、美女は廊下の角をまがってしまった。予想外のことがたてつづけにおこったので、反応が鈍くなりがちなのは、むりもない。  美女を追って角をまがりかけたタケシの足が急停止する。背後で異様な音がひびきわたったのだ。それも二度つづけて。  足をとめて振りむいたタケシは、いやでも理解せざるをえなかった。最初の音は、蝶番がはずれてドアが吹きとんだ音。そして二度めは、吹きとんだドアが床に倒れこむ音だった。 「うわ、わ、わわ、わ……!」  ノブオは床にへたりこんだままの姿勢で後退している。ドアを破ってあらわれた物体は輪郭《りんかく》こそ地球人のものに見えたが、全身にみじかい緑毛が密生し、苔《こけ》のかたまりが動き出したように見えた。目が存在する位置に、赤い火球が燃えあがっていた。  怪物は、腰をぬかしたノブオには目もくれなかった。理由はわからないが、水平の位置でしか、ものを見ることができないようだ。だが、それは動作の緩慢《かんまん》さを意味するものではなかった。わずかに動いたかと見ると、ただ一瞬で、怪物はタケシを両腕にとらえられていた。タケシは恐怖と嫌悪の叫びをあげた。その叫びが突然やんだのは、怪物が自分の顔をタケシの顔に密着させたからである。  ノブオは床の上を這《は》って逃げ出した。  夢中の数十秒がすぎて、ノブオは、いつのまにか庭に出たことに気づいた。手に数ヵ所のすり傷がある。立ちあがろうとしたが、腰にまるで力がはいらず、へたりこんであえぐばかりだった。 「ああ、あなたは助かったみたいですね」  おちついた声がして、それがノブオをしばる目に見えない糸を切った。夢中でノブオは声を押し出した。 「あ、あの死体が、バケモノが、タケシにキスして……」 「キスしているわけじゃありません。あいての口から生体エネルギーを吸いとってるんです。二番めに効率のいい方法ですから」 「二番めって、それじゃ、一番めは何なんだよ」 「生者と死者が、たがいの足の裏をあわせるんです。完全に密着させなくて、すこし離れていてもいい。足の裏に湧泉穴《ようせんけつ》というツボがありますけど、生者のそこからエネルギーが流れ出て、死者のそこへ流れこむ。でも、まあ、いまはそんなことより、あなたたちがここへ来た事情をうかがいましょう」  ノブオはようやくあいてをまともに見ることができた。みっつの人影。中央の少年はどうでもいい。左右に立つチャイナドレスの美女の視線にうながされて、ノブオはべらべらしゃべりだした。舌は油でもぬられたように回転して、飛鳥井家の内情をあばきたてた。 「祖父さんがいいだしたんだ。いちど死んで生きかえったんだから、英道の運の強さは底が知れない。どんなに才能があっても運のない者に、財産や事業をゆずりわたすことはできない。だから英道にすべてをゆずりわたす、ほかの者はあきらめろって」 「みんなおどろいたでしょうね」 「あたりまえだ。こんなむちゃくちゃな話があるかよ!」  ノブオはわめいたつもりだったが、たいして大きな声にはならなかった。 「タケシの失望ぶりがいちばんひどかったな。これまで何のために努力して祖父さんに気にいられようとしてきたんだか、わかりゃしない。必死に勉強して、おこないをつつしんで、あげくに、女だの薬物だのとやりたいほうだいの英道に、何もかも持っていかれるなんてよ」 「それで英道さんをあらためて消してしまおうとした……」 「おれはそこまでする気はなかったけど、祖父さんのやり口にはさすがに腹がたったよ。ましてタケシはなあ……祖父さんを殺したくなったとしてもむりはないね」  英道の「死体」をかたづけたあと、タケシは祖父を殺害しようと計画していたかもしれない。いや、たぶんそうにちがいない。自分のやることに正当性を見出してしまえば、あとは終局までいきつくしかないのだ。 「ところで、おまえ、何でこんなところにいる? いったい何者だよ、おまえは!」  声が裏がえり、ノブオは血相《けっそう》を変えて立ちあがる。状況および配役《キャスト》の異常さに、ようやく気づいたらしい。衝動的に両手を伸ばして、瞠の襟首をつかもうとした。  一瞬の後、悲鳴とともに両手をひく。両手の甲がかき裂かれて血がはねとんだ。右手は金童、左手は銀童のしわざである。  両手をいっぺんに傷つけられたので、ノブオはとっさに傷をおさえることもできず、血を流したまま立ちすくんだ。彼の目には、二匹のネコが、短剣をかざして威嚇《いかく》するチャイナドレスの美女に見える。うろたえたあげく、ノブオは血まみれの両手で頭をかかえて泣声をあげた。 「こ、殺さないでくれ……」 「そんなことはしません。ただ、あなたのためにいっておきますけど、今夜のことは忘れるんですね。財産のほうも、あきらめろとはいいませんが、むりをしないほうがいいと思いますよ」  金童と銀童が同時に身を反転させた。するどい警戒の声をあげる。緑毛の怪物が、少年の背後に姿をあらわしたのだ。 「さっさとお逃げなさい。タケシさんは気の毒でしたけど、あなたがおなじ目に会う必要はありませんよ」  ノブオはけんめいに足を動かして、その場から逃げだした。彼がいなくなったあと、そこで何がおころうが知ったことではなかった。      ㈿  飛鳥井興邦《あすかいおきくに》は、けわしい視線を深夜の来訪者に向けた。八〇という年齢よりはるかに若々しい印象の身体を和服につつみ、袴《はかま》まできちんとつけて白い足袋《たび》をはき、羽織《はおり》をはおってソファーに腰かけている。まったく洋風の室内で和装を通すのが、この白髪の老人の趣味らしい。 「どうやってはいってきた?」  重々しい声で問われて、興邦の五分の一も人生経験のない来訪者は、恐縮《きょうしゅく》したように頭をさげた。 「すいません、ちょっと屋根から」 「警戒システムがあったはずだが」 「この子たちが解除してくれたんです。とても器用で」  場ちがいなほど華麗なチャイナドレスの美女がふたり、少年の左右に立っている。老人は一〇秒ほど観賞をつづけ、ようやく尋ねた。 「で、何の用だ」 「あなたのなさっていることが、陰陽両界を律する理に反しているのでとりしまるように。そう命令されました」 「おまえは陰曹官《いんそうかん》か」 「ただの使い走りです」 「冥府の使い走りか。走無常とかいうやつだな。どうやら生身の人間らしい」  金童と銀童が視線をかわして警戒の姿勢をとった。飛鳥井興邦は走無常を知っている、ただ者ではない。いや、もともと起屍鬼《きしき》の法をこころえている人物が、ただ者であろうはずはないのだが。 「ご想像におまかせします」  おちついた声で瞠が答える。半人前の未熟者にしては上出来《じょうでき》だ、と、金童は思った。 「とりしまるとかぬかしたが、具体的にはどうするつもりだ」  興邦老人の問いかけに、瞠は、直接は答えなかった。 「あなたが亡《な》くなったお孫さんをあやつって騒ぎをおこした理由は何ですか。べつのお孫さんがひとり亡くなりました。ジョークにしては度がすぎますね」 「そんなことを、何でおまえなんぞにしゃべらにゃならん」 「それじゃ、かってに推測します」 「ほう、聞こうじゃないか」 「あなたはご一族を試《ため》そうとなさったんでしょう。評判の悪い英道さんに全財産をゆずると宣言すれば、ほかの人はどう思うか。怒って反抗する人も出てくるでしょうし、絶望してさる人もいるにちがいない。そこまでひどいことをされてもまだ離反《りはん》しない人だけが残ればいい。そう考えたんですね」  返事をせず、老人は薄く笑っただけである。 「同時に、どうやって修得《しゅうとく》したかはわかりませんけど、起屍鬼の法をじっさいに使ってみるいい機会でもあったわけです。両方を考えあわせて、あなたは、お孫さんの遺体を利用することにしたんです。いっても無益とは思うけど、これ、おおきな冒涜《ぼうとく》ですよ」 「そんなことは承知の上だ」 「そうでしょうね」 「で、わたしをどうする気だ。陰界《あのよ》へつれていって、裁きを受けさせるつもりか」  傲然と胸をそらせる大富豪の老人を、瞠はじっと見やった。 「そんな権限は、ぼくにはありません」 「はは、そうか、単なる使い走りだったな」 「ええ、ですから、緑毛鬼《りょくもうき》の行動からあなたを守る義理もないんです。ぼくの役目は、陽界《このよ》の司法機関が介入《かいにゅう》しないよう、あとしまつをするだけで……」  瞠は視線を動かした。老人が何気なく瞠の視線を追い、表情と身体をこわばらせた。 「ひ、英道……!」 「さすがだな、どんなに変貌《へんぼう》してもお孫さんがわかるんですね」  瞠の口調が、すこしだけ皮肉っぽい。 「それにしても、どうやってついてきたのかなあ。きっと、お祖父さんにお目にかかりたい一心ですね。距離だって、あのマンションから五分ぐらいのものだし」  瞠の足もとで、二匹のネコがくるりとシッポをまわす。夜道で他の人に出くわさないよう、緑毛鬼をたくみに誘導してきたのは、金童と銀童だった。  飛鳥井老人は白眼をむき、舌を出してあえいだ。 「それで、ちゃんとあとしまつはすませてきたの?」  熱いスコットランド風スープの深皿と大きなスプーンを、京お姉さまはテーブルの上においた。いい匂いが湯気のかたまりになって瞠の顔を打つ。 「うん、すませた」 「どんな風《ふう》に?」 「緑毛鬼の口の中にこれを打ちこんだ」  瞠がポケットからとり出してテーブルの上においたのは、大きな爪楊枝《つまようじ》のように見えた。  京お姉さまは床の上にミルクの皿をふたつおいてから、その爪楊枝をとりあげて、まじめくさった表情で観察した。 「よろしい、樹齢百年以上の桃の木でつくってあるわね。でもって、『一陰一陽《いちいんいちよう》之謂道《これをみちという》……』ふむふむ、易経《えききょう》のなかの文章もちゃんと書いてある、と。緑毛鬼はとけてしまったわね」 「どろどろに」 「傍迷惑《はためいわく》な飛鳥井老人は?」 「腰をぬかして気絶してたから、そのままにしてきた」 「ふん、甘いわね。わたしだったらトドメをさしてやったところだけど」 「それじゃ殺人だよ」 「ま、いいでしょ。錯乱しても自業自得《じごうじとく》。正気で意識を回復したら、タケシとかいう孫の変死について責任を問われるだろうしね」  うなずいて、京お姉さまは椅子にすわった。 「じゃ、スープをおあがり。そのあとで話があるわ。いい話よ。鬼怪胡同《クイクァイフートン》から招待が来たの」 「へえ、ほんと!?」 「ウソいってどうなるってのよ。北京《ペキン》に行けるわよ」  北京には鬼怪胡同《クイクァイフートン》(おばけ横丁《よこちょう》)と呼ばれる地区があって、全中国のおばけが年に一回そこに集まり、会議やパーティーを開くといわれている。生きている人間で、それに参加できるのは、走無常の資格を持つ者だけだ。 「あたしは五年前にお呼ばれしたけど、あんたははじめてでしょ。走無常も鬼怪胡同《クイクァイフートン》に行ってようやく一人前。金童と銀童もひさしぶりだろうから、みんなでにぎやかに行こう」  瞠はスープの皿から、金童と銀童はミルクの皿から顔をあげて、いっせいにうなずいた。                註:京《みやこ》おばさん、ではない、京お姉さまの店で売っているあやしげなグッズは、すべて実在します。